太宰治『斜陽』の文章が美しすぎて、読後、美味しいスイーツを食べたかのような気持ちになった

書評

太宰治の『斜陽』が面白い

私はしがない30代のサラリーマンである。

特に読書が好きというわけではない。

小学6年生の夏休みに、100冊本を読むという目標を立てたが、一冊目で挫折した男である。



ところが30代になった今、ふとしたきっかけで、太宰治の『斜陽』を読んでみたのだが、

これがめちゃくちゃ面白かった。


「面白い」というのは、ストーリーが面白いという単純な話ではなく、

読書体験』として、面白かったのである。


なぜ『読書体験』として面白かったという表現をしているかというと、

それは、『斜陽』の文章が、今まで出会った中で一番美しく、読みやすかったからである。


文章を読んで、「心地よい」「気持ちいい」という風に感じたのは、初めてである。
言葉のチョイスが、いちいち絶妙に良いのだ。

Kindle版かiphoneの「Book」アプリだと無料なので、是非読んでほしい。

太宰治「斜陽」

太宰治『斜陽』とは

文学に造詣が深くない私でもよく知っている太宰治。その太宰治が生み出した、中編小説。
1947年に刊行されて、ベストセラーに。
戦後に没落していく貴族の様子が、淡く儚く描かれている。

国語辞典の「斜陽」という言葉に没落という意味が加えらるほど、当時影響を与えた。

太宰治『斜陽』が面白いのは、なぜ?

美し過ぎる文章

本当に、何回でも言いたい。

『斜陽』の文章は、美しい。

読んでて、しんどくない。
すらすら読めるし、スイーツを食べているような心地よさがあるのだ。

そして、お腹いっぱいにならない。
ずっと読んでいられる。

思えば、インターネットやスマホが普及したことで、
色んな人の文章を読む機会が増えた。

私達は、TwitterやブログやSNSあるいはニュースサイトなどで、
誰かが書いた文章を日々読んでいる。

しかし、このような文章を見て、美しくて快感である、と感じることはほとんど無い。

だからこそ、太宰治『斜陽』の文章に触れたとき、
その美しさ、読みやすさに、衝撃を受けたのだ。

いびつな文章やわかりにくい文章を読んでいると頭が痛くなってくるが、
『斜陽』はその逆で、読んでて快感なのである。
脳がリフレッシュされる感覚があるのだ。

儚さ、感傷、ロマンティック

太宰治『斜陽』は、没落していく貴族の様を描いているのだが、
雰囲気が、儚くて、感傷的で、ロマンティックで、暗雲としているのである。


私はしがないサラリーマンだ。

企業というものは利潤を追求するために存在しており、
基本的にはそのための仕組みが構築され、
我々サラリーマンは利潤を追求するという目的の元、日々仕組みの中の1ピースとして、働いている。

何が言いたいかというと、そのような環境下では、
「儚さ」や「感傷」、あるいは、「ロマンティック」なんてものは、不必要なのである。

利益を上がるために、システマティックにやるべきことをやる。

でも、本当は誰でも、
心の中に「儚さ」や「ロマンティック」や「暗雲とした」部分が、少なからずあるはずだ。


そのような、普段は触れることがない心の部分に、
ダイレクトに働きかけてくるのが、『斜陽』なのだ。


だから、面白いと感じるし、暗雲としたストーリーであるにも関わらず、なぜか心がスッキリするのだ。

太宰治『斜陽』の中で、個人的に好きな文章を紹介する

全体を通して文章が美しくて好きなんだけど、
特に印象に残っている箇所を紹介する。

まずは、初っ端で登場する、お母さまのスープの食べ方が美しい、ということを説明する文章。

スウプのいただきかたにしても、私たちなら、おさらの上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプをすくい、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルのふちにかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、つばめのように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端せんたんから、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち傍見わきみなどなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。それは所謂いわゆる正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可愛かわいらしく、それこそほんものみたいに見える。また、事実、お飲物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだ。けれども、私は直治の言うような高等御乞食なのだから、お母さまのようにあんなに軽く無雑作むぞうさにスプウンをあやつる事が出来ず、仕方なく、あきらめて、お皿の上にうつむき、所謂正式礼法どおりの陰気ないただき方をしているのである。

どうだろう。

お母さまがスープを食べる様子が、頭に鮮明に浮かんだのではないだろうか。

お顔をしゃんと挙げて、

「お顔をしゃんと挙げて」という日本語は、普段使わない。
でも、意味はわかるし、響きがなんとなく好き。

つばめのように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで

「燕のように」
ではなく、
「燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかに」
と表現することで、
読みやすく美しい日本語になっていると思う。

ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい

スプーンを扱うようすを、
「ひらりひらり」「まるで小さな翼のように」
という言葉で表現しているのが、好き。
言葉のチョイスが良い。


続いて、もう一か所。
弟の直治が帰ってくるということで、主人公のかず子が不安を感じている箇所。

どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しいなみが打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄きはくになり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事が出来なくなった。

疾走感のある文章。
不安という感情を、わかりやすく、読みやすく、美しい日本語で表現している。

まとめ

太宰治の『斜陽』は、日常生活で私達が触れることが無いような、美しい日本語に触れることができる。
そして、読んでいて心地良いし、美味しいものを食べた時のような感覚を、読書で味わえる。

そして、そういった読書体験は、大変楽しいものであり、
システマチックな現実世界から離れた感覚を読書を通して体感することで、脳をリフレッシュできると思う。

つまり、『斜陽』めちゃくちゃおすすめだ。

おわり。

太宰治「斜陽」
Kindle版

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